小売業
事例集
2023.04.20 06:00
有機農法にこだわる最高級ブランド『市田柿』 農業を目指す若者と共に農業経営革新を起こす ピアブランカ(長野県)
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長野県飯田市にある農業法人、ピアブランカ株式会社は、南信州の特産品として全国的に知られる干し柿「市田柿」をはじめ、モモ、ナシ、リンゴを生産している。早くからオンラインショップを開設して通信販売に乗り出しており、売上に占める直接販売比率は約3割に上る。日本の農業就業人口が減少の一途にある中、県外の異業種から農業を志して転職して来た若き従業員たちに有機農法を基本とする果樹栽培のノウハウを伝授しながら、農地を順次拡大。新しい農業のあり方を示す存在として注目されている。(TOP写真:作業場の前に立つ正木利幸社長)
日照時間が長く寒暖差の大きい地形は、他社が真似できない強み。 干し柿の最高級ブランド「市田柿」もこの地形から生まれた
「この地形こそ、当社のコア・コンピタンス(競合他社が真似できない独自の強み)の一つです」。飯田市座光寺の高台に広がる果樹園で、ピアブランカ(株)代表取締役の正木利幸氏は胸を張る。
中央アルプスと南アルプスに囲まれた飯田市を中心とする伊那谷は天竜川によって形成された河岸段丘で、標高差は2,700メートルと日本一。日照時間が長い上に昼夜の寒暖差が大きいので、旨みと甘さをギュッと凝縮した果物が収穫できる。独特の地形によって生じる朝霧は、とりわけ干し柿の水分と乾燥に影響し、干し柿の最高級ブランドとして知られる「市田柿」が発祥した要因の一つともなっている。
Windows95の時代にホームページを自作し、オンラインショップを開業
正木社長は1861年(蔓延元年)から続く農家の7代目だ。若い頃は農業に興味を持てなかったそうで、1992年に一橋大学商学部を卒業すると長野県松本市の電鉄会社に就職した。しかし、会社員生活が性に合わずホテルに料理人として異動。その後、宿泊観光業での独立を目指し、ペンション経営の勉強をする傍ら、実家で生産している「市田柿」をインターネット通販する「ピアブランカ」を自ら手作りで立ち上げた。「Windows95」が発売されて間もない1996年のことで、発売されたばかりのホームページ作成用ソフトを買ってきて、パソコン画面と悪戦苦闘しながらやっとの思いでオープンに漕ぎつけたという。
1997年4月にピアブランカを株式会社化、果物ネット販売を主要事業とした。相前後して実家の重要な働き手だった母親が急逝したことから、農業生産にも従事するようになる。同時に、天竜川でカヌーやラフティングを楽しめるのが“ウリ”の貸別荘「カントリーハウス ピアブランカ」も実家の近くに建設、1998年8月に営業を開始し、宿泊観光業を営む夢も実現した。ちなみにこの貸別荘は、周辺一帯で遺跡が発掘され国の史跡として指定されて買い上げられたため、2019年に営業を終了している。
正社員を採用し、法人として農業経営に本格的に乗り出す
その後、父親が他界し前妻とも離婚したため農家の働き手が自分一人になってしまった。そこで、ピアブランカ㈱を農業生産法人とするとともに、ハローワークで正社員を募集し、農業経営に本格的に取り組むようになった。2010年のことである。
ただ、ハローワークから紹介される人材は、正木社長の経験不足や未熟な社内体制もあり、なかなか定着しなかった。そのため、2015年頃から就農希望者と農業法人とのマッチングフェアに参加し、本気で農業を志す人材を採用するようにした。主にサラリーマンから転職してきた20代後半から30代前半の若者たちだ。農林水産省の新規就農者雇用助成事業を活用したり社会保険を完備したりして職場環境を整えたことから、他県から移住してくる社員が定着するようになった、かに見えた。
社員が相次ぎ辞めたのを機に社内制度を見直し、“ナンバーワン”の労働環境へ
ところが2021年に異変が起きた。8人いた正社員のうち6人が2~3ヶ月の間に次々と辞めてしまったのだ。正木社長は自らの至らなかった点を模索する一方、転職サイトに記事を載せたり、マッチングフェアに参加したりして積極的に求人に動いた。その結果、現在は正社員9人、アルバイト2人と元よりも人員は増えた。従来から、1年のうち半分は共同作業がないので出勤時間を自由に設定できるなど働きやすい職場作りをしてきていた。この出来事を機に、さらに評価制度や育休制度を設けたり、社員が自主的に創造性を発揮する環境を整えたりするなど、社員がより前向きに仕事に取り組みやすいようにした。
正木社長はこの経験について、「一度底に落ちたので、私の取り組み方も会社も大きく変わりました。2022年はそういう意味で分岐点となる年でした」と振り返る。そして、「今や当社の労働環境は農業法人の中ではナンバーワンだと思います。評価制度も大切ですが、一番は心の底から農業が楽しいと思えることです。移りゆく自然を感じながら自らの裁量で働ける喜びがあれば人生として成功です。」と自負する。
農作業をする人のいなくなった農地を預かり、栽培面積を順次拡大
この1年で果樹園の栽培面積が1ヘクタール増え合計6ヘクタールとなった。東京ドームの1.3倍の広さになる。働き手がいなくなった果樹農家から農地を借りてほしいと頼まれるようだ。周辺にはピアブランカしか農地を預けられる果樹農家はない。「今の農業界は就農者の平均年齢が68歳というおかしな産業です。その人たちが(病気などで)急に農業をできなくなる。ある日突然『農地が空いたけど、正木さんしかいないのでお願いします』と言われるが、自然環境を守るために引き受けざるを得ません」(正木社長)。いつ農地が増えてもいいように、「常に人材に先行投資して、数名の余剰人員を抱えるようにしています。社員の心身がギリギリの状態では良い仕事(結果)は達成できません。」という。
現在の売上高構成は「市田柿」が5割、モモとナシが2割ずつ、残りがリンゴといったところ。オンラインショップを通じた直販は徐々に増えてきており、現在は全体の3割程度。あとの7割は農協を通じて出荷している。
生き生きとした木を育てるために土作りから始める
ピアブランカの果樹園経営の特徴は土作りから果樹栽培を始めることだ。人間の腸にいる100兆~1,000兆個の細菌が健康を維持する上で欠かせない働きをしているのと同じように、土の中にも莫大な数の細菌がいて果樹の育成に重要な役割を担っているからだという。樹木の周りの土に堆肥(たいひ)を入れ、わらや落ち葉を敷き詰める作業を毎年繰り返すことで、土の中の細菌が活性化する。
「以前に借りた果樹園は、それまで農作業をしていた人が高齢だったので除草剤を撒いていました。除草剤を撒いても木は枯れず一応実をつけます。でも、土が弱るので木も勢いを失い良い果実にはなりません。毎年良質な堆肥を入れて、木が生き生きと再生するまで7年かかりました」(正木社長)。
土作りを重視することで、「どこにも負けない、誰からも評価される高級な果物をすべて自家生産しています」とも。朝一番の採れたてを直販するモモ、ナシはもちろん、皮むき、吊るし干し、アルミ缶や袋詰めなど加工工程が多い「市田柿」も社内で一貫生産している。
企業ホームページ作成に特化したソフトでオンラインショップを一新
スマートフォンが普及し始めた十数年前には、スマートフォンにも対応できるようにオンラインショップのホームページを一新した。今度は企業ホームページ作成に特化し懇切丁寧にサポートしてくれるソフトを採用。以前に比べると「格段に作成しやすく更新もしやすい」と評価する。
そのホームページを見ると、オンラインショップとしての商品はもちろん、正木社長のさまざまな思いの丈を綴った随想や社員のブログもびっしりと書き込まれている。正木社長にすればアクセス数や検索ランキングに物足りなさを感じるようで、SEO(検索エンジン最適化)対策が当面の課題だそうだ。その一方で、「今のうちの技術では収穫する果実の100%を最高級の商品にすることはできません。そうすると直販が3割程度というのはちょうどいいのかもしれません」(正木社長)とも考える。
直販の常連顧客には必ず手書きで季節の挨拶などを盛り込んだお礼の手紙を送る。年間300通以上を書く。そのおかげか直販の顧客はリピーターが中心で、そこに毎年少しずつ新規の顧客が上乗せされているという。
社員20人が目標。モデル事業として全国に広めるのが夢
ピアブランカの将来展望として、農業の大規模化は正木社長の眼中にはないようだ。できる限り農薬や化学肥料に頼らず、有機農法を基本とする同社のやり方だと、「社員20人くらいの規模が限界だと思う」(正木社長)という。
「全国組織の巨大病院というものはほとんどなく、各地域ごとにそこの地域医療を担う病院があるのと同じです。病院も農家も生き物を相手にしているので、一人で見られる範囲には限りがあるのです」と正木社長。20人程度で果樹園を経営するモデル事業を確立し、全国に広げていくのが夢だという。
事業概要
会社名
ピアブランカ株式会社
住所
長野県飯田市座光寺4654番地
電話
0265-24-5766
設立
1997年4月
従業員数
11名
事業内容
農業(果樹、野菜)の生産・販売、新規就農者の育成、農業に特化した労働者の派遣など